2010年02月18日

芦花ホームを訪問して

 老人介護施設は、需要と供給が非の打ち所無くマッチしていて、今後も開拓が進められていくだろうビジネスチャンスの場であると思う。ただし、人間が生きていく場である。考えれば考えるほど、気が重いし、よく分からなくなる。
 私の身近なご年配の方は、「俺は焦っている。若いやつは誰も知らない。俺しか知らない事がいっぱいある。」とおっしゃっていた。それを聞き、私は始めて、後世に伝えたいという意思の存在を知った。人は齢をとれば、身体の動きが鈍くなる。一線で活躍していた人間が、老いのせいで身体を動かす事がままならなくなる、なんてどのような恐怖である事だろう。きっと、そうなった時、後世に託したいという思いがが芽生えるのだろう。もしかしたら、人生にはステージの様なものがあり、その時々の役割みたいな物があるのかもしれない。だとしたら、若い私の役割は、その思いを受け止める事なのかもしれないと思った。
 多かれ少なかれ人は、死が近づいた時、誰しもが後世に伝えたいという思いを何かしら抱くのではないだろうか。そして、死ぬまでの時間を潰しているのではなく、最後までよく生きたいと、誰しもが願っているのではないだろうか。
 しかし、老人介護施設に入居している方は、御自分の意思を伝える事ができなくなっている方がほとんどで、又他者がその思いを汲み取る事も至難ではないかと思う。そこで他者がその方々に何をしてあげられるかと考えた時、できる事の一つに文化の供給があると思う。文化とは我々が先日させて頂いたお茶会もその一つであるし、絵を描くこと、何かを作ること、音楽を聴くこと等、もさることながら、美味しく食事をとる事、おしゃべりをする事、身体を動かす事、等も含まれると思う。 あらゆる生活の中で、意図的に美学を持って(例えば、美味しいとか、綺麗だとかと思う事)行う事がすでに文化に成りうるのではと思う。まさに茶道とはそういう芸能ではないだろうか。
 ただし、老人介護施設は、あくまでも会社であり、ビジネスの場である。文化を供給するために、ボランティアというシステムを使わざわるを得ない。ボランティアとはよく言った言葉で募集する側にも行う側にも大義名分を与える事ができる。つまり、してもらって当然、してあげて良い事したという数列が成り立つのである。
 私は以前、とある一流の音楽療法士のお仕事の場を見学させて頂いた事がある。膨大な理論と裏づけに基き、何度も試行錯誤したであろう方法を用い、なんとも暖かく優しい言葉と表情と音色を使うその様に、私は大変感銘を受け、感動した。これもボランティアだという。「私はお年寄りが大好きなの。お年寄りに喜んで頂けるならそれで良い。」と、おっしゃっていた。
 デフレで不況の烙印を押されてしまった昨今の日本で、今後文化がどの様に在るのか気が重い議題であるが、こんな時は、じきに文化が必要とされる日がくるはずだ。その時、社会の受け入れ態勢がどうなっているかは案じられるが、結局我々ができる事は、黙って芸を習得し、鍛錬する事しかないのかもしれない。


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posted by 香衣 at 01:59| 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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